引用;いいいいいいづな
僕のコンポストトイレを注文してくれる人はかなりの確率で面白い人が多いです。
この記事で紹介されている「青山さん」もトイレを注文してくれた方。ご注文の際に電話口でお話しして彼らの生活ぶりなど少し聞くことができたのですが、ソーラーパネルたったの一枚で電気を賄い、食料はほぼ自給といった生活を実践しているそう。羨ましい生活してるなぁと思いました。
僕は青山さんのことをもっと知りたくてSNSでつながりましょうと提案したのですが「僕たちはもうSNSやめることにしたんです。WEBサイトもFacebookも閉鎖します。リアルなつながりで生きていきます」といったことを言われてますます彼らのスタンスが好きになりました。
本当の社会貢献とは
さきほど引用した青山さんの言葉で以下の部分が好きです。ああ、昔の自分に言ってあげたい!
だから、個人の生活を変えることが社会貢献だと思ったんです。
「生活を変えることが社会貢献」ほんとそう。僕が「国際協力」に全く興味を持たなくなったのはこれに気づいたから。というか、気づいてしまったら国際協力って言葉がとっても気持ち悪くなったんだよねぇ その国際的な歪みって一体誰が生み出しているの?っていうこと。https://t.co/FeS6fmflmA
— オフグリッドライフ発明家のモーリー (@yusukemori87) 2018年11月3日
僕はその昔、世界がもし100人の村だったらを読んで「国際協力」というものに目覚めた人間でした。そうして大学時代は国際協力NGOのケニア給食支援プロジェクトに参加していました。
僕の学生時代は国際協力ブーム。友人らも「カンボジアに学校をつくる」みたいなプロジェクトに参加しているのが結構普通なことだったりしました。葉田さんというこのムーブメントの先駆けでカリスマみたいな人がいて、彼の活動は映画にもなりまさに国際協力絶頂期にありました。
僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia.
でもなんとなく、違和感を感じていました。僕の違和感は311の原発事故と同時に爆発します。
モーリー
国際協力という言葉に踊らされて世界にプラスのことをしていると勘違いして気持ちよくなっていた僕は311以降何が「プラス」なのかわからなくなって「環境負荷を与えない生活=ゼロに生きる」を目指すために自給自足を志すようになりました。
当時の僕のブログにはこう書いてありました。
結論として、ぼくは平和貢献活動ごっこをやめようと思いました。
「世界にとってプラスな森雄翼で死にたい」っていうのも難しいんじゃないかなと思います。
なにが世界にとってプラス(=平和)なのかわかんないもんなまじで。
もちろん目の前に苦しんでる人がいたら助けようと思う心はまだ俺にはあるし
日本でまた災害が起こったら全力で自分にできることをするつもりだけど遠い遠い国で苦しんでいる人のことまで案じて心を苦しめたり
死にそうな人を助けることに人生を捧げたりっていう意味がよくわからなくなってきた。なにがプラスかはわからない。
だから最低限マイナスにならなければいいんじゃないかと思う。
マイナスだったら、わかる。
ぼくたちは「普通の」生活をしているだけで、確実に世界を蝕んでいる。
ぼくらの普通の生活はまわりまわって海を汚す、森を切る、空気を汚す、大地を、川を、いきものを…iPhone買い替えたり部屋にストーブつけてブログ書いてるぼくなんて死んだ方がいいです今すぐ。
でもお母さんより早くは絶対に死なないって決めてます。
そんでぼくはプラスもわからないし、マイナスは死んだ方がいいので、ゼロに生きることにしました。動物さんたちはみんなゼロです。
なぜなら彼らは「自然の一部」であり「不自然を生み出さない」からです。
ぼくは動物になろうと思います。
5年後こんな感じです。
自給自足というか狩猟採集生活を目指します。そのための土地と家を買うので300万円を貯めるのが今後の予定です。
大学を卒業するまでの一年半は、必死でお金を貯めます。
誰か300万円ください。
このとき以降、僕は国際協力というものにある種の気持ち悪さを感じてしまいます。もちろん、その分野に使命感をもって従事されている方々もいるので声を大にして言うことはできませんが…。
芥川龍之介の蜘蛛の糸
「答えを生きる」生き方を送る人が好きです。答えに行き着いたとしてもなかなかそれを実生活で実践するのは難しい。だからこそこの青山夫妻のライフスタイルは価値があるものだと思うし、これこそが本質的な「社会貢献」なんだと思います。
環境にダメージを与えないのが社会貢献…?と違和感を覚えた方は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出してみてください。お釈迦様が地獄を覗いてある一人の男の「善行」を思い出しているシーンです。
この陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこで陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
別にこれ、襲われてた蜘蛛を助けてあげたとかではないんですよね。ただそこにいた蜘蛛を殺さないであげた。それがお釈迦様にとっては評価ポイントだったわけです。これと同じように「誰かを助ける」ことだけでなく「殺さない生き方」そのものが善という考え方もあると思うんですね。
この社会に歪みを生まない生き方。未来にツケを残さない生き方。それら歪みやツケに一切加担しない生き方。これこそが今の社会における真の「社会貢献」なのではないかと僕は思います。
また、そういった生き方を「広める」こともひとつの社会貢献なのかもしれません。僕はそういう意味でコンポストトイレを広める仕事をしていますが、やっぱり自分の生活が破壊的なものであることには常々違和感を抱いて生きていてそれが辛くもあります。
免罪符を受け取るための生き方はやめた。自分一人がもがいたところで社会は変わらないけれど、何かしらの「答え」を見つけてその答えに生きるという信念を貫くくらいにはこの生涯を、この生をちゃんと使ってみたいと思います。