モーリーこと森雄翼はこんな人〜生い立ちからこれまでのあゆみ編

寒いですね、モーリーです。

いまトイレ商品化のためのクラウドファンディングページを作っています。

そのための、自己紹介的な記事を書こうと思います。

このブログもなんだか多くの人に読まれるようになってきて「モーリーってどんな人か知りたい!」という人も増えてきた頃だと思うので、ちょうどいい機会だと思って(^ ^)

どうでもいいようなことまで詳細に書いてしまったので超長いです。

 

生い立ち〜中学まで

熊本県水俣市という田舎の町で生まれ育ちました。

3兄弟の末っ子。1989年の平成元年生まれです。

地元の幼稚園、小学校、中学校に通いました。

小学校から始めたバスケットボールに夢中になり、バスケ漬けの思春期でした。

ちなみに小学生の頃が人生最大のモテ期で他校の女子生徒からファンレターが届いていました。(その後は悲しいほどモテませんでしたが)

中学ではバスケの大会が終わって陸上も少し。駅伝の選手として走りました。

スポーツ大好き、負けず嫌い。行事大好き。

勉強もまあできたしコミュニケーションも取れたので、いわゆる「優等生」みたいな感じだったかな。

高校時代

varunkul01 / Pixabay

中学時代は勉強の成績もよかったので高校は進学高に行くかと言われていましたが、最寄りの進学高が電車で1時間。移動時間がもったいない、その二時間でバスケの練習ができるという理由で近所の高校に行きました。

毎朝5時台に家を出て、まだ誰もいない体育館でひたすら自主練をしていました。

しかし怪我などに見舞われてうまいこと上達しませんでした。

チームも、試合に出ても不甲斐ない結果に終わることが多くて悔しい思いをたくさんしました。

今でも高校バスケの夢でよくうなされます。

一方で進学高に行かなかった分、勉強がおろそかになってはいけないとZ会という通信教育で勉強。

こっちは逆にグングンと成果が伸びて部活を引退する頃には東大京大を目指せるくらいのレベルに達していました。

たびたび言うように進学校ではなかったので東大だったら史上初、京大だったら40年ぶりとかって言われてました。

そりゃもちろん史上初の方を目指しましたが学力が足りず。京大ならギリギリ可能性がある感じだったので京大へ。

合格した時は嬉しい、というより安堵感。期待とプレッシャーで押しつぶされそうだったのです。

ちなみに高校時代は本もたくさん読んでいたのですが「世界がもし100人のむらだったら」を読んで世界の不均衡を知り、大学は農学部に行くことを決意。

将来は自分も農家になって、残りの99人から資源を奪わない生き方を目指したいと考えていました。

大学時代

大学生活前半

念願かなって一人暮らし。大学では農業サークルに入り、全国の農家さんを巡る(いわゆる援農ってやつ)という活動をしていました。

高校時代に頑張りすぎたせいで大学では全くと言っていいほど勉強せず。

祇園の入り口にある「はるみや」という居酒屋に入り浸り、カメラマンのアシスタントの仕事をしながら祇園遊びの毎日を繰り返すという堕落した生活を送っていました。

あるときに北海道の雪まつりが見たくなって、でもお金がないのでヒッチハイクで北海道を旅しました。

そこで人生を変えるほどの出会いがあり、京都に戻ってからは人が変わったように活動的に。

大学を休学して「100人のむら」の不均衡をなくす活動を本格的に始めます。

休学1年目

食料廃棄に心を痛めていた僕はまず食の流通業界の実態を知ろうと、京都市卸売市場でバイトを始めます。

卸売市場は独特の世界でした。そこでは本当にたくさんの食べ物が捨てられていました。

そして、卸売市場の雰囲気も掴めたし、市場の人々の人柄とかタイムスケジュールとかも把握できました。

年末までの期間限定の仕事だったので、2011年の年が明けると誰も知り合いのいない場所でチャレンジしたいと名古屋に移住。

移住して間も無く名古屋で東日本大震災を体験し、今こそ卸売市場の廃棄食材を利活用せねば!と思い立ち、市場関係者様のご協力をいただき廃棄食材と震災支援を絡めた活動を始めます。

それは、廃棄食材を使用したレストランを学生の仲間と運営し、集まった寄付を被災地に送るという活動です。夜しかやってないお店の昼間の時間をお借りして1ヶ月の期間限定で営業しました。

この活動を終えた僕は単身で仙台へ出向きます。震災後1ヶ月が経っていましたが家を失った方々はまだ避難所生活の最中でした。

仙台でも卸売市場に行くと普通に食材が廃棄されていました。これを無償でいただいて、無料で配布するという0円八百屋という活動を始めました。

これを約1年間続けたのですが、その間住居はどうしてたかというと、津波被害にあった家をお借りしてボランティアの方々と改修して、ボランティアが無料で泊まれるゲストハウスを運営しながら暮らしていました。

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休学二年目

約一年間、廃棄食材と密に向き合って活動してきました。そうしているうちに僕の価値観の変化もあり(震災で価値観が変わった)これは一度頭を整理しようとお遍路に行くことを決意します。

2012年の5月から約2ヶ月かけて四国をぐるっと一周しました。

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そこで出た答えは2つだけでした。ひとつはここでは言えませんが、もう一つは「自給自足したい。田舎暮らししたい」ということでした。

お遍路を終えて3ヶ月層雲峡国立公園のホテルでリゾートバイトして大学に復学しました。

大学生活後半

大学に復学して残り1年半の大学生活をどう過ごすか。僕にはもう「田舎暮らし」しか見えていなかったのでとりあえず「卒業までに300万円貯金する」という決意をしました。

バイトで稼ぐかどうしようかと悩んでいた時に行きつけの「虹色カフェ」さんがお店を辞めるということを「ここだけの話ね」とみんなより先に教えてくれました。

「じゃあ次僕がやろうかな」と軽い気持ちで言ったつもりが本当にそういうことの運びになりまして。

バイトして稼ぐよりも力がつくような気がしたのでやってみることにしました、東京で反原発の議員さんを応援するために選挙ボランティアをしていた時に出会った女性と。

それが今の妻です。

途中から待ちきれずに京都の北の方の集落に茅葺の家を借りて改修したりしていたので途中からお店は休みがちに。

「臨時休業」というより「臨時営業」みたいなお店でした。

そうこうしているうちに妻に子を授かり、

卒業式にはコスプレして参加するつもりが赤子を抱えて参加しました。

 

和歌山移住、ゲストハウス開業

さていろんなことがあった大学生活。目標とする貯金は全くたまりませんでしたが店をたたんで田舎暮らしすることにしました。

京都北部での田舎暮らしは寒すぎるということで和歌山へ移住。

山深くて川が綺麗で温泉の多い場所です。

参考「【和歌山】秘境と古道の町、熊野川町で新たなまちづくりを始めませんか?

地域おこし協力隊という制度で採用していただき、現在は古民家を改修したゲストハウスを運営しています。

現在はエネルギーの自給にお熱。

最初は食料の自給にも取り組んでいましたがそっちには手が回っていません。

最終的には食料もエネルギーも自給できたらいいなぁ。

トイレ屋

ゲストハウスを運営しながら、もっと取り組みたいことが見つかりました。

世の中にコンポストトイレを広めるお仕事です。

コンポストトイレとは排泄物を肥料に変えるトイレのこと。

僕が以前取り組んでいた「廃棄食材」の活動、

あれは「もったいない」という思いをモチベーションにしていたんですがすごく人間目線だったなぁって。

そうじゃなくて食べ物という「命」を次なる「命」につなげることができたらそれでいいじゃないかと、田舎に来てそう思うようになりました。

だから食べ物が余ったら土に返せばいいと思うんです。ゴミ箱に入れるんじゃなくて。

そう思ったらもっと問題視するべきは「うんこ」だと気づいたんです。

食べ物は命。うんこは汚いもの?

それって人間目線です。

うんこは他の生命にとっては「ごちそう」なのです。

それをお金とエネルギーをかけて「処理」するんじゃなくて土に返して他の命を育むことに繋げたい。

トイレ活動は、学生時代の廃棄食材活動の延長なのです。

To be continue

以上長々と自己紹介しました。読んでいただきありがとうございます!

本当は僕のビジョンとかも書きたかったのですが長くなるのでまたの機会にします。